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2008年6月15日

●許せないのは、もしかして?

許すということについて

「許す」ということが、自分の中でどのような感覚があるかを、クラス全体でシエアする時間があったの。
 きれいごとの中で、よく使われる言葉。
「許しなさい!そしたら、救われますよ。楽になりますよ。」
「ほどこしを与えなさい。救われるために。」
それも、変な話で、じゃ、救われないんだったら、許さなくていいのか?与えなくていいのか?いつも、変な言葉だな〜って思うの。
条件付きだから。

相手を許せなくて苦しんでいる人に、「許しなさい」なんて、私は絶対に使わない。
私がクライアントだったら、カウンセラーに、「そんなにひどい奴、許さなくていい!」って、言われたい。
「禁煙できないんです」って人に「なんで禁煙しなきやいけないんですか?」って、言ったら、「そんなこと言われたの初めて。やめなくていいんですか?」
って、聴かれたから、「どう思う?」って聴いたら、そのクライアントの人、次のとき、タバコやめてたの。あれ、不思議だったな。
話は、それたけどね、
許したくない感情になるような出来事に、解決されていない問題があるうちは、無理。
クライアントの痛み、苦しみの根本原因を探して、感情を外にださなければ、解決はしない。そうでなければ、根本的に救われたことにはならないと思うの。
 
 という意味でも、今日の話は、すごくおもしろかった。
私は、皆のしゃべってる英語の内容がよくわからなかったので、クラスメイトのアキちゃんに通訳してもらったところ、第三チャクラが痛くなった。
 「許すこと」とって、それぞれの感覚の中で、本当にいろんな思いがあるんだなって思った。「許したら負ける気がする」とか、「許したら、また、同じことをされる」とか。それは、起っていないことに対するイメージなのかもしれないけど、確かにあるよね、そういう恐怖や不安。
 私の中の許しの感覚は、今、ちょっと妙な状態にある。
佐藤家のパターンなのだけど、問題の本質にさしかかると、いつものまにか、相手が、すごく感情的になって、話題を別回線にすりかえて、瞬間的に、その問題と全く関係のない論点へと移行。
「栄子がいかに悪い人間であるか探し」になって、「そういえば、あのときも、お前はこうだった、ああだった」と、そうなるの。それに意見したり答えていたりするうちに、最初の問題がなんだったのか、よくわからなくなる。
 怒鳴る、威嚇する、話を歪曲させる。こういう相手には、まともに接しても話ができないから、「私が大人になればいいんだから...」と、小さい時から、ものわかりのいい人になることを自分が選んできた。
不毛な会話です。後味も悪く。それでも、相手には許されないのにね。そして私は、自動的に謝る。その癖ってなかなか治らない。

 私の中にある「許さない」というテーマだけど、そういうわけで、「私は絶対にそういうあなた達を許さない」という気持ちは、結局、どこにも使いどころがなく、ポツっと存在してて、寂しいのだということに気がついたの。
 おかしな話でしょ?
 相手は、私から許されるすも許されないも、別回線で、別次元で存在してるから、そんなことまったく考えてもいない。
 
 自分を受け入れられたいと思うあまり、つい謝る。本当の気持ちじゃないのに、真実の自分を分離させるとき、怒りが出る。この怒りは、相手に対してというよりも、もしかして...自分に対してなのかな?

 私は私に言おう!許せないのは、自分自身なんじゃないのかな?

ということに、気付かせてくれる家族関係は、本当に大変なんだけど、「混沌の中にも晴れた空があり」とは、まさにこのこと。(あきらめたくない、の詩だったかな?)
ある意味、私は、この家族から、本当に恩恵をたくさんもらっていると、思うのです。

あ、ちょっと、今日も、それに気がつけて、救われた。
それに気づいた自分を許したら、救われた。


 

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コメント

「論点のすり替え」とか
「どこまでも自分(達)は悪者にならないように持って行き、結局相手を悪者にして決着させる(謝らせる)」
って、いわゆる「毒親さん」がよくやるパターンですよね(うちもそうでした)
毒親さんって、よくそこまでと思うほど「保身能力」に長けていたりして、私もかつては散々苦しめられました。

そして「自分を許すこと」かあ。実は(サバイバーがなかなか気付きにくい)基本中の基本なのかもしれませんね。

とあるスピリチュアル系の本に書かれている「誰かに対する怒りや恨みと向き合う」エクササイズの中に
「私は自分を許します、と言う(理由がわからなければわからないままでいいので、とにかく許します、と言って下さい)」
というステップがあるのですが、「自分を許すこと」までたどり着けると「一山越えた」って感じなのかもしれませんね。

”許す”って何だろうって思ってました。
幼少期の頃に母からDVを受け,大人になったら今度はモラルハラスメントでそんな母にその事実に気付き、認め謝ってくれるまでは完全に許す気持ちはもてないと思っていました。

それでも母からの愛情が欲しくて、いい歳した大人なのに甘えて、ご飯食べに行ったり旅行行ったり肩もんであげたり・・と怒り憎しみ悲しみの反面、いまだに愛情を求めています。
寂しさの裏返しなんですかね。

epoさんの言う”家族からたくさん恩恵をもらったことに気が付けて救われた、それに気づいた自分を許したら、救われた”
参考にさせてもらいます。私にも思い当たる節があるので憎んではいけないと思っていた家族に対しても少しは思いが軽くなるのかもしれませんね。

epoさんの日記は人間くさくて現実味があって読みながらも自分とも向き合えるので勉強になります。
忙しい中更新して頂き、ありがとうございます!!

某有名アニメの「新世紀エヴァンゲリオン」(ってはっきり言ってる)で、女性ヒロインの一人で14歳の、惣流・アスカ・ラングレーが、「嫌い!嫌い!みんな、嫌い!でも一番嫌いなのは、この私」って台詞がある。
(このアニメ、私は100%好き、ってわけではないけど・・・。)
若いころは、自己否定する傾向がある。先日、ある事件で殺された女の子のプロフ見たら、恋に悩み、自分を受け入れてもらいたいがために、性格を直したいって、悩んでた。(ここの部分削除してもらって結構です。)
民主党代表の小沢さんが、党首選に出た時、自分も変えたい、と言って、当選したたけど。自民党首相の小泉さんが、人間の性格なんて簡単に変わらないよ、ってある意味批判(ある意味激励)してた。
私も、最近まで悩んでたんです。男なのに、長身で面長なのに、体力が無いこと。そして、妙な感受性を持つことを。
でも、自分の中にある、別の人格を尊重しようと考えたら(メッセージで匿名で書いた内容です)、自己否定する必要なんか無いな、って。それ以来、気が楽になった。(それを、気づかせたのは、あのモデルだったり、シンガーソングライターだったり。シンガーソングライターの方の詩は嫌いですけど・・・。) 自分を受け入れるようになったんです。
私は思春期以来、epoがずっと好きだったし、生長の過程もepoの曲と一緒にあった。
自己否定は、単純にしてはいけません。

十人十色の主人公が登場するアルバム『peach』の中でもウチアタイする
『あきらめたくない』を聴くと、鼻の奥がツ〜んとしちゃうんだよな(T_T)

追伸:お母様やお兄様と一緒に泡盛をグビっと本音が話せる時が来るのを
祈っております(-人-)

「許しなさい!そしたら、救われますよ。楽になりますよ。」
「ほどこしを与えなさい。救われるために。」
宗教でありがちな言葉ですね。
と言いつつ私はクリスチャンな訳ですが^^;
これもそれぞれの解釈があるのですが私の場合は、
epoさんのおっしゃる通り『条件付き』だと
苦しくて仕方ないのです。

救われたいのはやまやまなのですが、
ほどこし(この言葉もあまり好きではないのですが)をしたいと思えば
「救われるため」など関係なくしますし、
相手の行動を許せる時期というのがあると思います。
私は家族から受けた行動や言葉を、
そうするに至るまでの彼らの状況を考え
彼らも苦しんだ末仕方なかったのだろうなと
想像することはできるようになりました。
でも、頭で理解する事と感情で許す事は別物です。
私の中の少女が、ここから出して!と
今でも叫び続けています。
なだめてもなだめても、肉親に限らず似た状況に陥る度に
何故、どうして私はこんな仕打ちを受けるの!?と
私自身に言い続けるのです。
大人になったふりを、相手に合わせたふりを
している私に。
でも、今は思考の次元が違う相手と戦うエネルギーが私にはない。
自分の感情と矛盾せずに相手をかわす方法。
それを模索し続けています。

「あきらめたくない」は何度も涙した歌ですが、
歌われているEPOさんご自身も泣いていらっしゃい
ますよね?
罪を許すこと、人を許すこと、自分を許すこと、、、
本当に難しいです。。いつか分かる日が来るのかな?
今、「心の旅」は私にとって、人生そのものの歌です。
年を重ね、ますますそう実感する日々の中で、
EPOさんの幸せもこの場所からお祈りしてますね。

はじめまして。
致知随想に惹かれて、来てしまいました。
許すって難しい言葉だけど、ありのままの相手を受け入れるってことですね。相手を変える必要がないんだ、と。