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2011年4月24日

●避難所にて

どんなことから書いていいのかわからない...。
ちょっと気持ちが落ち着いてきたので、
書けることから書いて行こうと思う。
なんとなく記憶が断片的だけれど、
今思い浮かぶ大切なことだけ忘れないように今日は書く。

私の父は気仙沼の出身。本吉町、津谷に実家がある。
2週間前まで全く連絡がとれず、本当に心配していた。

山形で私の活動を応援してくれている早坂さんが、
車を出してくれて2泊3日の旅につきあってくれた。
本当に心から感謝。
山形空港から気仙沼に入る道すがら私達は、声を失った。
何かに、形容することさえできない。
見たままのことが全て。
私の感想なんか書いても意味がない。

お昼に山形に着いたのに、悪路の連続で避難所に着いたのは夕方6:00。
慰問ライブの時間一時間前だった。

避難所...TVはあるけれど、誰も見ていない。
ラジオなどもほとんと聴いている様子がない。
だいたい地震があった当時、自分の街がどうなっていたのかさえ、
皆さんが知ったのは最近だという。
停電しているし、TVも見ることがでいない。
あまりにとっさでラジオなども手元にない。
あとでこれほど酷い状況だったのかを知って、
皆、腰を抜かしたとのこと。

避難所...
鬱鬱とした重い空気が床に張り付いたようにそこにあった。
自分の場所には荷物が置いてある。
ほとんどの人が食事を取りに言ったり、
トイレに立つ以外その場所から離れることがないという。

従姉妹の旦那さんが役場の人であったこともあり、
歌いに行くことになったけど、
避難所に入った瞬間、居場所がない...。
どこにいたらいいのかわからない...。
呆然と立ち尽くす。
皆に見られることすら、
申し訳ないような気持ちになっている自分がいる。

地震直後から、たくさんのアーテイストたちが、
応援Songをリリースしている。でも..ここにいるとね、
「誰が聴くのかな...そんなもの...。」
という、ちょっとむなしい気持ちになる。正直言って。
これって誰を喜ばせるための歌なんだろう...。
と、疑問に陥る。

この街を見て、今、被災している人たちが一番して欲しいこと...
それを考えると、実際にここに来て、
現実を見て、瓦礫の撤去をしたほうが、誰かのためになるんじゃないかって、
私は、本気で思ってしまった。
毎日生まれているたくさんのアーティストの支援Songの世界と、
現実にここで起こっている状況は、本当にかけ離れている。

と、思う一方で、
アーティストでもある私も、
音楽を作ることによって、何もできない罪悪感から、
免罪されてる部分もあるんだろうな。
それを聴く人たちにとっても同様に。
誰かを助けたいと思う気持ちには変わりがない。
音楽によって間接的にでも、被災地をサポートしたいという
気持ちをかきたてるというのも、実は素晴らしいことなんだ。
頭が冷えてきたら、そう思えるようになった。

Liveが終わって、叔父の家にもどると、
皆、堰きを切ったようにいろんな感情が湧き出て、
会話が止まらない。
楽しい話も、悲しい話も。次から次に話題が変わっていく。
とにかく、誰かに聴いて欲しいという気持ちで一杯。

「生きていることに...助かってしまったことに...家が壊れなかったことに..
罪悪感があるのよ...。」
そう言いながら、泣いている叔母や従姉妹の言葉に、私はかける言葉がなかった。
一緒に泣いた。
それぞれの、家族関係、避難所にも、
それまでは見えてこなかった、いろんな感情のひずみが噴出している。
状況に少し慣れて落ち着いてくると、
みんな個人のニーズを満たしたいと思う余裕が出てくるからだろうか?
その負担が若い人たちに向かっている。












避難所の方々は、ラジオも聴いているのかどうかわからない。


建物の前に小高い丘があったことで、津波の被害は避けられた。
でも従姉妹は、家が一階ぶち抜きで、波が来てグランドピアノも横立てになる被害。

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